私の職業は看護師です。そして「若年性パーキンソン病患者」です。

そう言えるようになるまで、今までいろんな出来事がありました。
そして、今の私を支えているのが「看護師として働き続けること」
泣いて、笑って、ここまで生きてきた、たかが、40年の人生ですがお話ししたいと思います。

現在、40歳。
若年性パーキンソン病の診断が付いたのは、ちょうど33歳ごろでした。
今、思えばその何年も前から手の震えや筋肉の固縮というパーキンソン病の症状は出ていたので、もうかれこれ10年近いのかもしれません。


私は幼少時代よりほんとに普通のどこにでもいる、普通の子供でした。
高校へ入るとスポーツにはまり、体育の教師を目指すが…受験に失敗。
仕方なく何か珍しいスポーツを、と思い陸上ホッケー部がある学校に進学し、ホッケー漬けの生活、熱中しすぎてホッケーで就職することになりました。
仕事が終わればホッケーの練習、試合、という忙しくても充実した毎日で、国体にも2回出場できました。
また、陸上ホッケーでの経験を活かして、アイスホッケーも始めることになり、夏は陸上ホッケー、冬はアイスホッケー…今、思えば一番青春していた時期だと思います。
ホッケー就職で親元を離れて6年、26歳の時、突然、母から連絡があり、
父が末期の肝臓癌であり、余命3ヶ月程度であると・・・
母を一人に出来ず、仕事もホッケーもやめて、大阪に戻ることになりました。


大阪に戻っても仕事はなく、日々衰弱していく父を目にするのは辛く、私は目を背けているばかりで、ほとんど父と目を合わせて会話をすることもなく病院で付き添っているだけという状態でした。
いろんな看護師が、毎日父を看護してくれているのを目にしているうちに、今から看護師になれないだろうかと、とんでもないことを思い始めてしまいました。
そんな時、看護師長から「うちの病院で働きながら看護師になってみない?」と声をかけていただきました。
なんというタイミング…というか白衣に少し憧れていた私は、看護助手からスタートし、看護学生から看護師の道を歩みだすこととなりました。
病床の父は「おまえに務まるわけない」と鼻で笑っていましたが、看護助手として働く私を目にしては、看護師長にとても嬉しそうな笑顔を見せていたそうです。今思えば、喜んでいてくれていたのかな…と思います。
でも父の肝臓癌の進行は待ってくれず、看護学校への合格通知を待たずに、残念ながら父は亡くなってしまいました。
亡くなる前に「必ず看護師になる」と約束をしてしまったので、これで破ることはできなくなり、がむしゃらに看護師への道を突き進むことになりました。 
27歳の時、無事、准看護師学校に合格、2年後、准看護師試験に合格。
そのころはまだ今より少し若かったので、准看護師として働きながら正看護師を目指すため進学の道を選びました。
准看護師として夜勤もこなしながらの学生生活は、忙しくて満足に睡眠を取ることすらできなかったけれど、一生のうちで、一番勉強した時期だったと思います。


看護学校の2年生、30歳か31歳だった頃、ふと左手の薬指がプルプル小刻みに震えているのに気がつきました。
その頃からひどい肩こりと背中の凝りに悩まされるようになり、勤めていた病棟が整形外科だったので、医師に相談しました。
ところが「気のせいじゃないの?」とか「疲れてるからじゃない?」と曖昧な返答でした。
次第に左手全体が重だるいと感じるようになり、近所の整形外科を受診、「胸郭出口症候群」と言われ、リハビリをするようにとのことでした。
リハビリに通っているのに、手の震えは強くなり、何か変だ?と思うようになりました。
「手の震え」=パーキンソン病という医学的な知識はあったものの、「まさかこの歳で…?」という思いと「この私が絶対パーキンソン病なわけない!!」という2つの思いがパーキンソン病という選択肢を消し去りました。
手の震えや動きにくさの症状を隠し、自分自身を騙しながらでも看護師の仕事はなんとか続けていました。
でも、震えは収まらず…じゃあ次の選択肢は脳になんか異常があるのかも?
脳腫瘍?と考えて、比較的大きな脳神経外科の病院を受診することにしました。やはり脳腫瘍を疑われたものの、MRIには全く所見なし。
では胸郭出口症候群が原因で起こる手の震えでは?と言われ、血管造影の挙句に手術適応と言われ、大学病院での手術に至りました。
手術をしてからはさらに症状は悪化するばかりで、腕の拘縮も進み、看護師の仕事を続けることは難しくなり、退職するしかありませんでした。
この時、看護師としての仕事を諦めざるを得なかったことは本当に辛い出来事でした。

これではダメだと思い、胸郭出口症候群を専門とする名医が岩手にいると聞けば、岩手までその先生の診察を受けに行きました。
そこでもMRIを撮ると腕の神経が癒着を起こし、神経を圧迫しているために再手術が必要との診断でした。
今思えば、私の中では「パーキンソン病」という選択肢が消えればそれで満足だったのかもしれません。
岩手の病院で再手術後、大阪でのリハビリが始まり、これで震えなくなる、自由に動ける、また看護師として復帰できると思っていたのですが、そういうわけにはいかず、何をするにも手の震えが目立ち始め、人前で左手を常に隠すようになりました。
この頃から人と会うのが怖くなり、あまり外出しないようになっていきました。
なんで?震えるの?やっぱりパーキンソン病なの?
と、自暴自棄にもなり、医学書を読みあさり、「パーキンソン病」について調べ続けました。
医学書を読めば読むほど自分の症状と似ていて、不安に押しつぶされそうになり、パーキンソン病で有名と言われる病院、神経内科で有名な病院をいくつも受診しました。
手の震えに効くと聞いて心理療法にも通いましたが、結果は…不明。
で、最後に心療内科の門を叩き、3ヶ月入院治療したところ、少し手の震えが落ち着き始め、何とか退院することになりました。
今、考えればアーテンという震えを抑える薬を服用していたから、症状が落ち着いただけだったのかもしれません。
手の震えはマシになったものの、左足の震えが出はじめ…
「パーキンソン病」ではないということを否定するために、神経内科に検査入院することになりました。
結果は…やはり「若年性パーキンソン病」。
これから服薬治療で様子を見ると言われ、絶望感のあまり、誰とも口を聞かず、泣いて泣いて泣きまくりました。
「パーキンソン病」…あ、もう看護師として白衣を着ることはもう無理なんだなと思うと、白衣を着ている医師や看護師をみることが苦痛で仕方ありませんでした。担当医師や看護師がどれだけそばに寄り添い、優しい言葉をかけてくれても、耳に入るどころか腹立たしく思えました。

何とか薬で症状が落ち着き、退院、自宅療養となったものの、通院のたびに白衣を着てイキイキと動き回る看護師を目にしては落ち込み、号泣…を繰り返す毎日が3年ほど続きました。
このまま無職でいるわけにも行かず、他の仕事を探しては見たけれど、目に入るのは「看護師」「医療従事者」の文字ばかりで。
やっぱり看護師としてまたいつか白衣が着たい、看護師の仕事がしたい、という思いが捨てきれず、無理を承知でいつも診てもらっていた近医の先生がデイサービスを開くと聞き、看護師の募集はないですか?とお願いしてみました。結果は「現在は募集していない」とのことでした。
やっぱり病気だからダメなんだ…と思っていたところ、「短い時間で一度働いてもらいたい」という連絡をいただき、デイサービスの看護師として再出発をすることになりました。
初めは「オフが来たらどうしよう」「迷惑かけたらどうしよう」「手が震えたらどうしよう」、とそんなことばかり考えて不安でたまりませんでした。
…が職員の人たちは病気のことを全て知った上で、あえて何も聞かず接してくれましたし、何よりデイサービスに来られている高齢者の利用者様から、些細なことで「看護師さん、ありがとう」と声をかけられた時、思わず涙が出そうになりました。

初めは同じパーキンソン病患者を見るのが怖くて、避けていましたが、ある一人のパーキンソン病の女性に会って、考えが変わった気がします。
その方は70代でひどいジスキネジアが発作のように出るため、服薬時間がずれると大変な状態になる方で、すべてのことに見守りや介助が必要でした。
他のデイサービスにも行かれていたのですが、あまりにもひどいジスキネジアのため、担当看護師が怖いから自宅に帰してきたり、ジスキネジアによる揺れのマネをされたり、ベッドに一人寝かされたままで放置されていたり、と、とても悲しい体験をされていた方で、家族様から後にその話を聞き、同じ看護師として恥ずかしく思えました。
その看護師がどういう意図でそういう行動をしたかはわかりませんが、私はその時に何が一番必要なのかを考えられる、その人の立場に立って考えられる看護師になりたいと、思いました。
いつ症状が出るかわからないけれど、今の自分の体験や今までの看護師として得た知識と技術を、少しでも役立てられれば…と思っています。
その方は今はもう亡くなってしまわれたのですが、後に家族様から「今まで会ったどんな看護師さんよりも、あなたのことを信頼していた。あんなに嫌がっていたデイサービスもあなたがいるから、自分から行きたいと言ってくれたんです。ありがとう。」と声をかけて下さりました。

その言葉とあの笑顔が、看護師としての今の私を支えてくれています。
一度は看護師として復帰することを諦めかけたけれど、何があっても諦めずに頑張れば、出来ることや叶うこともあると思います。
この先、自分の体調の変化に悩んだり苦しんだり、時には涙を流すこともあるかと思いますが、今、現在の自分が出来ることはその人の病気だけに目を向けるのではなく、その人個人を看ることの出来る看護師として頑張っていきたいと思っています。

 私はまた白衣を着ることが出来、患者様と接することが出来ることを幸せに思っています。
私が今まで出会ってきた患者様に感謝し続けていきながら・・・
2013.07.10 発行、全面書き直し 大島、2016・6・29 アドレス変更 大島